田中一村の命を削って描いた絵の前に立つと、一村の気が伝わってくるように思えます。1本の線にも大胆さと繊細さを兼ね備え、自然の豊かさを見事に描き出していました。その線を出すのにどれだけ自然を観察し、スケッチを描いてきたのでしょう。
自然のものを描く時、そのもののサイクルを見続けていかないと出てこない線があります。長い間見つめているからこそデフォルメの線も描けるのです。それがすでに一村は20代の頃からできていた気がします。自然の生命の息吹はものの先端、細部に宿ります。今成長しようとしているところが命の線です。蝶の触覚や葉脈の先、わかりずらいところ、見えないところが大事なのです。大胆に、また繊細に画家はマクロの眼とミクロの眼を兼ね備えてゆかなければなりません。それは長い歳月生物を愛し、観察することからはじまります。
一村のアトリエは小鳥たちのカゴで占領され、一村の眠る場所さえままならないようだったといいます。小鳥たちが弱ると一村はふところに抱いて生命をとりとめようとしたといいます。自然の中で観察しながら描く場合も多かったようですが、鳥たちをアトリエで飼い心を通わせながら観察し描いていたようです。
一村は5年間紬工場で働いて生活費と絵具代を稼ぎ、3年間絵を描き、また2年間展覧会の費用を稼ぐために働くという10年の計画を立てたそうです。50歳から自分の絵を見つけ、描けるのは60歳までと見越し、自分の環境の中でどうしたら集中して描けるかを考えた時、この10年の計画を思い立ったのでしょう。このぎりぎりの逆境の中でこそ一村の絵が生まれたかもしれません。
一村は5年間ただ働いていたのではなく、私が思うには毎日のように自然の観察や線の見きわめをし、この5年もの間は眼で描いていたのだと思います。鋭い眼をして白い画布を見つめる一村の姿が私には見えてきます。そして来るべき時に備え万全の体制を整えていたのでしょう。
私のコラムを読んだ方は一村の画集を見るかもしれませんが、印刷物からは原画の100分の1も伝わってきません。一村の薄墨で描かれた絵の荘厳さは、原画を前にしないと味わえないのです。50歳から精力的に自分の絵を求めて奄美に渡り描きぬいた一村に、私はこれからの制作に勇気と励ましをもらいました。
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