<熱帯魚を辞めてから知った、不思議な感じのするお店>
専門学校に入学すると、その2年間は本当に絵を描くだけの毎日だった。
「学校の課題がスゴイですからね。専門学校にいた2年間は本当に絵ばかり描いていました。と同時にその専門学校時代は熱帯魚を始めてから、初めて熱帯魚から離れた時代でもあったんです。」
専門学校を卒業すると2年の間は会社に入ったり、フリーになったりを何度か繰り返した。
「とりあえず21歳の時にいきなりフリーになっちゃうんですね。ただちょっとややっこしいんですけど、フリーになったり会社に入ったり、またフリーになったりを繰り返していたんです。会社はデザイン会社のイラスト部門みたいなところにいたんですけど、そういうところで仕事をしていると、それなりに自分のレベルがわかる。自分のレベルがわかって、やっていけるという自信がつく。あるいは、どの程度のレベルが世間的に常識なのかがわかった時点で独りでやった方がいいと・・・そんなことを2年の間、繰り返していました。」
本格的にフリーになると、当初は来るものは拒まずで何でも描いていた。
「ビデオのパッケージ、映画のポスター、パンフレット・・・その頃は『何でもやりますよ!』って感じだったんですけど、いちおう人物画が得意という売り文句でやっていたんです。特に女性の絵が得意だったんですよ。」
そんなある日、不思議な感じのする店を発見する。スナックみたいな外観の店なのだが、水草が生い茂った水槽が置いてあった。ドアには『水草メンバーズ・ショップ』という看板とともに、『小学生おことわり』も一緒にぶら下がっている。
「何回も行き来して見たんですけど、あやしい感じの店なんです。水槽があるんですけど、店内の様子は全然見えない。扉もスナックみたいな感じの雰囲気で、入るのに勇気がいるんですよ。買うかどうかわからないのに『メンバーズ・ショップ』なんて看板が出ているし。」
それが今から20年ほど前、当時神奈川県川崎市の溝の口にあった『水草苑』だった。
「店内に入ると水草がドバーとあって、はっきり言ってびっくりしました。当時は水草の店いうのはまだどこもやっていなかったことなんですよ。国内で唯一の水草専門店だったんです。」
この店の存在を知った時、再びアクアリストとしての感情がよみがえってきた。
「ただし、その時やりたいと思ったのは、かつての熱帯魚中心の水槽ではなく、あくまで主役は水草のレイアウト水槽です。まずレイアウトをイメージして、その場所に何を植えるかといった設計図みたいなものを作る。水草が中心で、魚を入れるとしてもアピストとか小型カラシン。あくまでも主役は水草です。」
90cm水槽から始まった水草水槽は4本まで増え、以後6年間は水草にのめりこんでいった。
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